<< うちの妹のばあい メインページへ 



この春、妹が受験をした志望校に合格した。


合格発表から帰ってきた妹は僅かに息を弾ませ、
それでいて淡々と、俺にその結果を報告する。


「…受かってた」

 

真っ先に受験の成功を祝ってあげるつもりだった。

おかえりと、おめでとう。
それから、がんばったねの一言も。

だけど俺が最初にかけた言葉は、
それとはまったくかけ離れた内容のものだった。

「…病院に行こう?」

妹は1週間以上も前から風邪気味で、今も微熱が続いている。
病院に行こうと腕を引いたのも、これが初めてではなかった。

でもその度に、彼女は首を横に振る。
「風邪薬、飲んだから平気…」

朝より熱があがっているのかもしれない。
握った手は異常なまでに発熱し、ますます俺を笑えなくさせていた。


「…手、放してよ」





今度は俺が首を横に振る。
もしこの手を放せば、妹は絶対に病院には行かなくなる。
今までがそうだったように。

”あの日”から病院は、妹にとって人を救う場所ではなくなった。

大切な人を奪う場所。
人が生まれ、そして死んでいく場所。
「絶対、病院には行かない…」

視線の先に、小さな写真立てがある。
家族全員で撮った、最後の一枚。

そこに写る妹も、それに俺自身も。
未来の自分たちがこんな風になるなんて、想像はしていなかっただろう。
  「俺も一緒に行くからさ。
 一度、きちんと医者に診てもらおう?」


俺は手を放さない。
たとえそれが、いつかは解かれる運命のものだとしても…。
「離れてよ。 近くにいたら、風邪…うつるから」

妹の抵抗に、俺を突き放すほどの力はなかった。

あの日以来、初めて二人で病院に足を運ぶ。
今でもあの病室からは、古い桜の木が見えるんだろうか?



4月から、妹は俺と同じ学校に通う。

何となく、合格の『おめでとう』は言うタイミングを逃してしまったけれど。
病院に行って帰ってきたら、これだけは言おうと決めていた。


がんばったね。

がんばったね、優香。

…もうじき、桜の季節がやってくる。

あれから十年。
過去と未来の狭間にある物語――。



「おにいちゃん、はやくはやくぅ!」

週に一度、妹はおめかしをする。
病院で入院している母親の元へ向かう時に限って。

いつ頃からか優香は、小学校には学校指定のジャージしか
着ていかないようになった。

あとになってそれが、俺の洗濯の手間を軽くするための
心遣いだと知った。

そして毎週訪れる日曜日、優香は病院にいる母親のために
精一杯のおめかしをする。

「二人が来ると、声ですぐに分かるわ?」
母さんは俺たちが見舞いに行くと、いつもベッドから身体を起こして待っていてくれた。

優香はそんな母親の元に駆け寄っていき、続いて俺もその足跡をたどる。

――笑えてるよな?

日に日に痩せていく母親と向き合う一方、この日も口元に余計な力ばかりが入っていた。



 
「母さん、調子はどう?」

病室に入ってからの、いつもの決まり文句。
それに対して返ってくる言葉も決まっている。

母さんはどんなに調子が悪くても、「大丈夫」と答える人だ。

以前から病気がちだった父親も病院で亡くなり、
俺たちの思い出の大半はこの場所が舞台だった。

優香はまだ甘えたいさかりで、
ひとたび母親の傍についたら離れようとしない。

そんな彼女に、もうじき母さんが死ぬかもしれないなんて……
言えるはずもなかった。


「おかあさん、はやくげんきになってね?」

困った顔をしている母さんにかわり、俺が優香に答える。

「大丈夫だよ、すぐによくなるから…」

こうしてまた、妹への『嘘』が増えていく。
それの善悪なんて、この時の俺は考えていなかった。

 



 

 
「それじゃあ、また会いに来るよ」

永遠には続かない家族の時間。
別れ際、母さんは力なく俺たちに手を振って見せる。

そして病室から出た瞬間、なぜか優香は俺の腕にしがみついて
ぽろぽろと涙をこぼし始めた。


「優香…?」

ずっと泣くのを我慢していたのかもしれない。
俺はその涙の意味を、母さんと離れるのが寂しいからだ……と
勝手に解釈していた。

「おにいちゃん……おかあさん、死んじゃうの?」

「――――!?」



胸のど真ん中を、太い杭で打ち抜かれたような衝撃だった。

心ない、看護婦たちの噂話。
回診に来た主治医が、病室を出て行く時に残していく深いため息。

優香が不安に思う材料はいくらでもあった。


「…………」

溢れる優香の涙を拭い、再び嘘の言葉を過剰生産する。
何とかして、涙を止める手段を探していた。

その場しのぎの麻酔薬。
優香を笑わす即効薬。

両手いっぱいに抱えたそれを見つめ、自分に問いかける。

――この薬で何時間、優香は痛みを忘れられる?

優香の涙は止まらない。

…最後に俺が手に取ったのは、真実という名の劇薬だった。


 

 





 
「ああ……死ぬよ」






今でもあの日の空を思い出す。

小さな妹の手。
二人だけで生きていく覚悟を決めた、焦がれる夏の始まり…。




空の青さが目にしみた、あの日。

妹の温もりが胸にしみた、かの日。

泣き虫な彼女は、ただうつむいて涙を堪えるだけで。
言うつもりのなかった「泣くなよ…」の言葉を、俺は桜の木の葉擦れに織り込んだ。


「おにいちゃんはずっと、ゆうかのそばにいてね?」

母親の死を必死に受け止めようとしている優香の気持ちが痛かった。
先のことを考えると、どうしようもなく不安になることも……。




もう二度と、妹に涙は……そんなことを胸に誓った幼き日の記憶。
過ぎていった季節の分だけ、変わったこと。失ったもの。


……俺たちはもう、昔のような兄妹ではなくなっていた。


以前は泣き虫で、夜一人では眠れなかった妹も、
今では自分の足でしっかりと前を歩き続けている。


でも俺は……弱くなったのかもしれない。


年を重ね、大人びた妹の声を耳にする度、
俺はこの生活の終わりが近いことを予感する。

いつか妹に恋人ができ、別々に暮らすことを告げられた時、
果たしてそこに、笑顔の俺が存在しているんだろうか?










「やっぱり、タクシーで帰ってきた方がよかったんじゃないか?」


病院で診察を受けた帰り、優香は俺の腕を引いて近所の公園に
寄り道をした。

そこに植えられた桜の木は、いつ来ても俺たちを感傷的な気分に
させる。

俺が優香と初めて出逢った場所。

そして、”あの日”の誓いを立てた場所…。

つないだ妹の手は、あの時よりもずっと大きくなっている。

「…タクシーなんて、お金がもったいないでしょ」

病院で診察費を払う時も、優香は同じようにぼやいていた。

正直、小さい頃に両親を亡くした俺たちには、あまりあるほどお金の蓄えはない。
それはお互いに分かっていたし、だからといって毎日を悲観的に生きるなんてこと
もなかった。

 


「こんな時ぐらい、気にしなくていいんだよ。そんなこと…」

言ってはみたものの、それで納得する優香じゃないことは分かっている。
こうしたことの度に俺は、収入のない学生の身分である自分を情けなく思う。

以前から、何かアルバイトをしようとは考えていた。
一度だけ、その話を優香にもしたことがある。


「優香…俺、アルバイトしようと思うんだけどさ…」
「暇なら、うちにいれば?」

…その日以降、優香にアルバイトの話を持ち出した記憶はない。

その代わり、俺には休むことのできない仕事ができた。

学校から帰ってきた優香に「おかえり」を言うこと。

報酬は……そんな優香が口にする「ただいま」の一言。

「たまには、自分の服にもお金使えばいいのに…」

突然の切り出しに、俺は思わず自分の服装を見直してしまう。


「…この服、変かな?」

こわごわ訊いてみると、優香は目を逸らして横顔を髪で隠し、

「彼女とかできたら、必要になるんじゃない…?」

言葉と同時に蹴られた石ころが、小さなカーブを描いて
桜の木の根本に落ち着いた。











 
「なら、当分は必要ないかな。彼女ができる予定もないし…」

この時は本当にそう思っていたんだ。

少なくとも俺が『彼女』と出会い、
そして優香が『あいつ』のことを笑顔で話し始めるまでは……。

「…じゃあ、妹の前でお洒落でもしてみれば?」

そう言い残し、優香は公園の桜の木に背を向ける。

俺はそんな彼女の後ろ姿に向け、


「だったら…」

…この時はまだ、俺にも優香にも恋人なんていなかった。
これからもずっと、こんな関係が続いていくと思っていた。










「風邪が治ったら、一緒に買い物へ行こう?」

「…………」


…優香はどんな顔をして、俺の誘いを耳にしていたんだろうか?

彼女が振り返ってからも、そんな妹の表情が気になっていた。



「…部屋に帰って寝る」






歩き始めた優香に続き、俺も傍にあった桜の木へ背を向ける。

公園を出る直前、一度だけ後ろを振り返った。


そこは、俺と優香が初めて出逢った場所。

一本の桜の木から共に歩き始めた、妹との十数年――。






出逢った頃の君は……泣き虫で人見知りをする、本当に小さな小さな女の子だった……。




<< うちの妹のばあい メインページへ